昭和48年09月23日 朝の御理解



 御理解 第13節
 「神は向かう倍力の徳を授ける。」

 神様に向かうと言う事、神様に向かうと言う事は、どう言う事か、こうしてお参りをして来る、合楽へ合楽へと皆さんが足を向けて来られる、是も神に向かう事。教祖様の御伝記の中にあります様に、神様のおおせとあれば、それはどの様な場合であっても、ハイと言う御返事一つで実行なさった。どんなに考えても普通の常識から言うたら困った事であり、又おかしな事であっても、神様のおおせとあれば、それを実行なさると。
 あの親戚の者が誰それが死んだからお悔やみに行けと言うあのお話なんかでもやっぱりそうで御座います。親戚の者誘い合わせてそしてお悔やみにお出られると、当の本人が出て見えたと。真っ赤ないうなら神様は嘘を仰った訳ですよね。それでも矢張り神様は、あなたはどうしてこんな嘘を仰る気ですか。もう是からはあなたの言う事は一切御聞きませんという態度じゃないです。どんなにそれこそ面つらが燃える様な思いをなさったであっろうけれども、唯自分の頂き違いと言う様な風に頂いておられる。
 そしたら神様が戻しの風は十層倍、戻しの風は十層倍と言うて帰れと仰ったと、言う様にです、神様に向かうと言う事は、神様のおおせ通りそのまま、受け実行すると言う事そこに倍力の徳というかね、所謂戻しの風は十層倍と言う様な力が出来る、働きが出来る様なおかげが受けられるというのである。ですからもう本当に金光教の信心は、私が何時も申します様に、常識を越えた物であると言う風にま申します。
 今日は私は此処ん処の向う倍力の徳と言う所の神様一生懸命にそのー拝むとか、お参りをするとかと言う事ではなくて、昨日の御理解を以てするならば、信心とはもう本心の玉を磨く事だとと言う事に、なら例えばそういう御教えを本気で実行するというその力です、それを実行しょうと思う、思いの丈だけ、思いの丈がどれだけあるのかと言う事だけなんです。
    (しばらく声が途切れる)
 昨夜田主丸の共励会でしたから、皆さん帰って参りました。それはもうやがて十二時だったでしょうか。文雄先生、若先生それから麻生さん、秋永嘉郎さんと私、私は昨夜はどうせ御霊様の事が御座いますから、起きておりますので、もう一生懸命にそのお話をしだしましたら、もう限りがない程に丁度二時半までだったです。だから私は、もう皆さんにもうこのくらいで帰って下さいちゅうてから皆んな帰りまかたから泊まらずに、私が朝の出仕が三時半ですから、一時間しかない。
 けれども今日は御霊様達がね、如何にこのお祭り前に御理解を頂こうとしておられるが、だからあなた達に今日は話すんじゃない。御霊様へお話をするんだと、私は十二時一寸前に、お供えは全部みな終わっとった。霊様に色々な、昔私にお夜食を作って下さる方達があります。お夜食まで沢山お供え頂きます。そのお夜食を其の儘、それからもうそれこそもう、たぎる様な濃いお茶、それからもう氷を浮かした冷たい水とをね、皆あのお供えさせてもらって。
 そしてあのう、まあいうならば、縁もゆかりもない様な御霊でもです、例えばなら皆さんの所のお家の御霊様が見えるとに、自分も一緒に連れて行ってくれと言った様な御霊が沢山ある訳なんです。まあ仏教で言うなら飢餓とでも申しましょうかね、愈々救われてないと言う様な人達も付いて来る。ですから私は必ず、そう言う風にさしてもらうんですけども、もうお供え終わらせて頂いてから、もう十二時から霊前に出ろうと思いよる処からでしたからね、丁度二時半まで話しました。
 それでもう御霊様の、楽な事楽な事ですね、そのもう合点させてありますから、お話しを頂いて御理解を頂いて、ですから終わってから、こちらへ立たせて頂いたのが丁度三時半でした。ですから、そのまま居間にまいりましたら、直子と幹三郎が行きましたから。何時もの様に、こちらへ出らせて頂いた。だから文字通り一睡もしませんでした。何時も大体十二時まで、だから十一時迄くらいは私はあの寝むんです。
 けども昨日はある特別の方達が、特別の方ちゅうか、富永先生が御二人御夫婦でこの頃、欧米旅行なさった時に、これを合楽教会い親先生にちゆうてお土産を買うて来て下さった。そのお土産もこの頃頂いとりましたけども、是だけは大事なものだからと言うんで船で送っておられた。それがもう保険付きで送った。それはもう大変な素晴らしい物を昨日丁度御霊祭の前日にこうやってお供え出来ると言う事は、お母さんがそれを早く見たい、見たいと言いよんなさった。
 先生とこにはこんな、あんなもんと説明はしてありましたけれども、ご覧になってなかったから、もういち早くもう御霊様にも喜んでもらおうと言うので、もう遅うから見えとられとる訳です お家には寄られんなりに、こちらに見えたとこう言う事でした。そんな訳でもうとうとう寝なんなりに、そしたら今度は、皆んなその田主丸の共励会から帰りましたからね、もう本当に文字通りぶっ通しでおかげ頂かしてもろうた。
 そして一生懸命、例えばあの信心のお話をさせてもらって、御理解を聞いてもろうて、今日はあんた達も聞いてくれとるけれども、今日は御霊様達への御理解、であのう御霊様の前でね皆さん御祈念なさる時ねお家の、なさる時にはね、今日頂いて帰った御理解を解かれるが一番良いとですよ大体は。あのう経文なんかと言うのは全部お釈迦さんが説かれた御理解なんです。あのお経というのは、バイブルなんかでもやっぱりそうでしょう、キリスト教のね。
 ですから仏様の前で、お経の本をぱらぱら、ぱらぱらめくるだけでも功徳を受けると言うくらいですから。ですから御霊様には祖先賛詞もでしょうけれども、本当言うたら、心の開かれ悟りを開かれる様に、御霊様に御理解を説いて、読んであげたが一番良いです あのおかげの泉なんか御霊様の前で声をあげて読むとよいです。ですから、御祈念をすると言う事よりも、素晴らしい事なんですね。
 昨日朝の御理解にもです、永年信心させて頂いとるけれども、信心とは、親先生のお話をして下さる事を聞くだけでなく、それを実行する事だと。十何年振りに分かったと言う。大森さんの話を致しましたね。けど是は、大森さんだけじゃなく、皆んなもそうではないかと、沢山聞きよる、こうして、聞いただけはこうして控えておる。テ-プも聞きよるけれども、それを実行する事だと。
 信心とは、本心の玉を磨く事だと言う事だけになる訳なんです。だから、今日は向かう倍力と言う事はです、そう言う教えに、取り組むと言う事なのです。その取り組む力なんです。成程是なら、倍力の徳を頂くだろうと思いますね、そうでしょうが、ただ一生懸命拝んだり一生懸命参っただけけんで言うてから、私は本当のお徳をおかげは受けても、徳は受けないと思うです。ですから昨日の御理解をもう一辺心の中に頂いて、そういうなら本気で教えを日々の生活の中に現そうというその意欲がね。
 百の力で持って進むならば、神様は二百の言うならば力を下さると言う事が一番間違いがない正確な事だと言う事なんです。夕べは特に私は皆さんに聞いて頂いた事は、とにかく信ちゃん大きくならにゃいかんばいと私が、是は信司さんだけじゃないですけれども、信司さんがそこに居りましたけん申しました事です。是から段々店の繁昌もせんならん。沢山の人も使わしてもらう様にせなきゃならん。是をあんたが小まい事どん言いよったっちゃ、汚い事どん言いよったんちゃ絶対大きくならせんよ。
 大きゅうならにゃいかん。私は最近ねもうあの好き嫌いというのが無くなった。例えばね私が赤が好きだから、紫がすきだからというて、しとったら紫と赤だけしか集まっちゃ来ん、けれどもこの頃おかげを頂いて、いうなら全部の色といわれる七色とか言われるね、虹の色が七色です。七色のどの色でも一番嫌いで嫌いでたまらん色はは私は、カ-キ色でしたけれども、その一番嫌なカ-キ色が、一番好きになるくらいに修行させて頂いた。ですからもうその、非常にお取次が楽になった。
 虫が好かんちゅうとが居らんごとなった人間の中に。だから私は合楽は大きくなるんだと私は申しました。自分なもう赤だけしか好かん。白は嫌いだとこういうなら、もう結局赤だけの世界しかない訳でしょうが。同時に又あれは嫌い是は好かんと言いよった事を、神様の気感に適わんそう言う事は。お相撲さん達が一回りも二回りも大きくなる時にはね、先ず腹から大きくなるそうです。腹が大きくなって来ると、その腹に伴うてご体全体が大きうなると言う事です。
 信心もです、だから腹が大きうならなければ大きなおかげが頂けるはずは絶対にありません。それこそ煩わしい問題ばっかりになって来るです。今まで煩わしいと思うておった事が有難い受けられる処からです、大きな腹が出来るね。教えを頂くと言う事は結局、限りなく美しゅうなる事である。愈々豊かに大きくなる事なんです心が。そう言う大きくならせて頂く事に、言うならば本気で焦点をもって拝む事じゃない、教えを行ずる事。本当に自分が豊かに大きくもっと美しゅうなると言う事に向かうその力がです。
 だから五十の力で向かえやー百の徳が受けられると言う事が。皆さん解るでしょう。私はねー神は向かう倍力の徳を授ける。向かう焦点がどこに置かれるか。教会にお参りをする、一生懸命に拝むから、一生懸命人の真似の出来んごたる修行をすると言う事も、矢張り向かう事に違いありません。神様お仰せとあるならば、それは嘘と分かっておっても、ハイと言う様な言わば迫力というかね、と言う物が打ち向かう事でもあるけれども、今日は私は教えに愈々取り組むと云う事。
 言うならばその教えの中でも、今日は限りなく美しゅう限りなく豊かに大きゅうならせて頂く事の為に打ち向かうその事に打ち向かう。是なら成程絶対お徳を受けるだろうとこう思う。それも五十の徳よりも百の徳、百の徳よりも千も万ものお徳を受けさして頂く様な、一つおかげを頂きたいと思うのです。神は向う倍力の徳を授けると仰る。先ずは一つ美しゅうなる、先ずはいっちょ大きくなる。腹からいっちょ大きうなろう。腹が大くなりゃ全てが大きうなって来る。
 それはお相撲さん達が一まわりも二まわりも大きうなるときにゃ先ず腹から膨れてくる、大きうなってくる、すと御体中が大きうなるというのと同じ事。信心もまず腹を大きくなさにゃいかん、もうこん位の事が腹が立つ。こん位の事が情けない。こん位な事がいらいらすると言った様な、例えば事に直面しますよねお互いが、そういう時にさあ是をどう大きくなる為に頂くかと言う風にですね、日頃の教えをそこに元にして、一つ大きくなる事に向かう。それが私は神に向かうと言う事だと思うです。
   どうぞ。